真言宗・豊山派 寿徳寺
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仏教入門塾・写経会・寺報『観世音』について

このページでは、寿徳寺前住職である慧誉和尚が、昭和37年1月18日(木)より隔月で45年間続けてまいりました寺報「観世音」の中から一部を抜粋して皆様へお伝えいたします。


観世音 第78号 (昭和49年11月18日)より抜粋

もし左の肩に父をにない、右の肩に母をかついで、須弥山を百千万回巡り歩き、ために血が流れてくるぶしがひたるほどになるとしても、なお父母の養育の恩の一日にすらならないだろう。



観世音 第77号 (昭和49年9月18日)より抜粋

マンダラという梵語は、本来「丸いもの」という意味がありますし、またマンダというのは、牛乳からとったエッセンスの醍醐です。それを持っているものというのがマンダラの本来の意味で、つまり「本質を有するもの」というのがマンダラという意味です。

~ 寿徳寺第24世 慧誉和尚 ~


観世音 第76号 (昭和49年7月18日)より抜粋

7月はお盆とお施餓鬼の月。読経時に子供のはあっちへいってなさいと遠ざけることはせず、むしろこの機会に子供に手を合わせてさせ、先祖に頭を下げるようしむけましょう。

~ 寿徳寺第24世 慧誉和尚 ~


観世音 第75号 (昭和49年5月18日)より抜粋

~ 仏の方便 ~ 火宅

迷える人の心は、まことに火の家である。しかるに人々は、火の家に愛着して焼け死ぬことを知らない。仏の大悲はやるせなく、いろいろに方便をめぐらして救いたもうのである。


観世音 第74号 (昭和49年3月18日)より抜粋

何人もその家計のことについては専心に蟻のようにはげみ、蜜蜂のように勤めなければならぬ。そしてその得たものを自分一人のため費やしてはならぬ。その幾分は積んで不時の用にそなえ、また国家のために、社会のために、その教えのための用いられることを喜ばねばならぬ。

~ 『新訳仏教聖典』より ~


観世音 第73号 (昭和49年1月18日)より抜粋

昨年秋以降の石油危機で、私たちは「消費は美徳」から「節約は美徳」の世界に一挙に叩き落とされ、上滑りした文化生活のもろさをいやというほど見せつけられました。いまこそ「もの悉く仏性あり」の聖語をかみしめ、お互いに深く物の尊さ、心の尊さに目覚めて、実のある生活をしていこうではありませんか。

~ 寿徳寺第23世 正譽和尚 ~


観世音 第72号 (昭和48年11月18日)より抜粋

およそ落葉した樹木はいつまでも落葉したままではない。春になれば、葉が茂り、花を咲かす。すべて、ものには固定した性質はない。人間はどうして常に悪人であろうか。機縁に会えば、凡人、愚者であっても佛の道に入ろうと願う。教えにしたがって学べば、凡人も賢者、聖人になろうと思う。

~ 空海著 秘蔵宝鑰 ~


観世音 第71号 (昭和48年9月18日)より抜粋

~ どんなものにも佛を宿してます ~

私は「お彼岸」とは「いのち」を大切にし、もう一度改めて見直す日だと思います。「ものいのち」をおしげなく投げ捨てゆく消費の時代。人間の意志に反するものを「害虫」とし根こそぎ、文化と名打って山のいのちを草木ごと削り取る時代。大自然の中に我々も生かされてるという自覚を失った時代。私共が「虫けら」と呼ぶものにも佛のいのちがあるのです。このようなことを自身に語りかけております。

~ 三念寺住職 清水淳誉 ~


観世音 第70号 (昭和48年7月18日)より抜粋

~ 心になること ~

山という字を書くときは、山におもいをひそめ、
花という字を書くときには、花の心になることが肝心である。
字画が正しく書けているだけでは、よい字とはいえない。

~ 弘法大師 ~


観世音 第69号 (昭和48年5月18日)より抜粋

仏法は近きに在り
仏法遥かにあらず
心中にして則近し
真如外に非ず
身を捨てて何処かに求めん

仏法というも真如というも、心を離れ、人間生活を無視して他にあるものではない。

~ 弘法大師 『般若心経秘鍵』 より ~


観世音 第68号 (昭和48年3月18日)より抜粋

~ 人を救う学問 ~

私が地方の国学を卒えて更に大学に学んだのは、単なる学者になるためではなく、また役人になるためでもない。学び得た学問は、それが直ちに多くの人々の苦しみと悩みを救うことのできる学問でなければならない。

~ 弘法大師の言葉 ~


観世音 第67号 (昭和48年1月18日)より抜粋

『伊呂波歌』

色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日超えて
浅き夢みじ酔ひもせず

~ 弘法大師 ~


観世音 第66号 (昭和47年11月18日)より抜粋

そもそも仏の悟りといっても遠く離れた世界のことではなく、実はわれわれの心のうちにこそ存在しております。真理というものは自分にかけ離れてあるのではなくこの身体を棄てては一体どこに求めることができましょうか。迷うも悟るも自分自身の問題であって、要するに発心するかどうかにかかっております。

~ 弘法大師の言葉 ~


観世音 第65号 (昭和47年9月18日)より抜粋

~ 即身成仏の正しさ ~

仏様は『金剛頂経』とか『大日経』とか『菩提心論』といった密教の経典のなかで、即身成仏の正しさをお説きになっておられます。

~ 弘法大師の言葉 ~


観世音 第64号 (昭和47年7月18日)より抜粋

先輩がたの説かれた教えはすべて顕教でしたが、私の説きたいと思うのは密教なのです。密教はまだよく理解されてないので、経論を参照しながら、一つの手引きを作りたいと思うのです。

~ 弘法大師の言葉 ~


観世音 第63号 (昭和47年5月18日)より抜粋

自分の心を知るのが仏の心を知ることであり、仏の心を知ることは衆生すべての心を知ることである。自分の心と仏の心と衆生の心の、この三つが平等であると知ることが、実は悟りなのである。

~ 弘法大師の言葉 ~


観世音 第62号 (昭和47年3月18日)より抜粋

つづける

特別なことのない限り、いまやっていることを今年もつづけていこう。
自分にはそれしか出来ないし、また、それが、自分に最もふさわしいことでもある。

~ 第23世 住職 新井正譽 ~


観世音 第61号 (昭和47年1月18日)より抜粋

閻魔王の教え

「わしはおまえに、ちょっとの罪ですら付け加えようなどとは思っていない。おまえ自身が生前、罪を造ったためにいま地獄へやってきたのだ。業の報いはおまえ自らが招いたのだから、誰もおまえに代わってやるわけにはいかない。ただ、おまえ自身が、地獄からぬけ出るための善業を修める以外に道はないであろう。」


観世音 第60号 (昭和46年11月18日)より抜粋

~ 仏と真理 ~

「私(仏)が世に出て真理を説法しようがしまいが、真理そのものは本来、実在している。従って、仏がいるとか、いないとかを問題とする前に、真理の探究を人々が実践するかどうかに重要性がある。」


観世音 第59号 (昭和46年9月18日)より抜粋

『往生浄土和讃』
 
生を濁世に受ながら 心の澄まぬ理は
濁れる水に月影の 宿るまじきが如くなり
迷う心を知らずして 仏を得んと求めんは
砂を集めて油をば 搾らんとするに異ならず



観世音 第58号 (昭和46年7月18日)より抜粋

ある高僧が言う。
「わしは地獄へ行くさ。世の中には極楽志願者ばかり多くて、地獄へは行きたがらない。それでは地獄に堕ちてもがき苦しんでいる者はどうなるのだ。わしは志願してでも地獄へ行って、そこのかわいそうな人々の話し相手になり、その苦しみを抜き、楽しみを与え、救ってやるのだ。」


観世音 第57号 (昭和46年5月18日)より抜粋

~  はずる心  ~


他人の過ちは見やすく、自分の過ちは見がたい。
他人の罪は、風のように四方に吹きちらすが、自分の罪は、サイを隠すものである。


観世音 第56号 (昭和46年3月18日)より抜粋

知りながらいつわりをいうようになれば、いかなる悪事でもなし得るようになる。
悪い事をするから、いつわりをいわねばならないようになり、いつわりをいうようになるから、
平気で悪い事をするようになる。


観世音 第55号 (昭和46年1月18日)より抜粋

ゴータマブッダは「真のバラモン」または「真の道の人」たるべきことを教えている。
かれは、新たな宗教を開いた、という意識がない。
かれは、どこまでも諸々の宗教に通じる「真の道」を明らかにしたつもりだったのである。

~ 慧誉和尚の恩師である中村元先生の寄稿より ~


観世音 第54号 (昭和45年11月18日)より抜粋

心よ、山も川も海も、すべてはみなうつりかわり、
禍に満ちている。この世の何処に楽を求めてよいであろうか。
教えに従うて、速やかに悟りの岸に渡ろうではないか。


観世音 第53号 (昭和45年9月18日)より抜粋

人が亡くなると一本花と称した
樒(しきみ)を一本さします。
二度と不幸がないように、との意味です。


観世音 第52号 (昭和45年7月18日)より抜粋

まことに「いのち」こそ大切です。
「いのち」あればこそ泣き笑いの人生です。
辛いこともあれば楽しいこともあるのです。
どんなに小さないのちも学者が寄り集まって
‘造り出す’ ものではありません。
その偉大さに心打たれると共に
振り返って我が身、我がいのちがいとおしいではありませんか。


観世音 第51号 (昭和45年5月18日)より抜粋

過去は追うてはならぬ。
未来は待ってはならぬ。
ただ現在の一念だけを
強く生きねばならぬ。


観世音 第50号 (昭和45年3月18日)より抜粋

~  三つの社会  ~


世の中には三通りの社会がある。
第一は、権力や財力のそなわった頭があるために集った社会。
第二は、ただ都合のために集って、たがいに争うことだけを知っている社会。
第三は、教えを中心として和合を生命とする社会。


観世音 第49号 (昭和45年1月18日)より抜粋

~  末後の水  ~


人の死は予測できません。交通事故などで即死という時は不可能でしょうが、臨終に誰かが立ち合えたとすれば、その人がいざ他界される直前に口内へ灌いでやる水を末後(まつご)の水と言います。死水(しにみず)とも言います。割り箸などの先にガーゼか脱脂綿を巻き付け、水をふくませて唇をぬらしてやります。その人に最も深い者から順にやります。これは、その人が未だ息ある時、すなわち生きている時に、最後の食事ということになります。立ち合う者からすれば生あるその人への最後の奉仕だといえます。


観世音 第48号 (昭和44年11月18日)より抜粋

~  自分  ~


自分は自分の主であり
自分は自分の頼り所である
それゆえに
何よりもまづ
自分をおさえねばならぬ


観世音 第47号 (昭和44年9月18日)より抜粋

~  写経へのいざない  ~


写経をするには、色々なきめもあって、その通りにやるのではむづかしいし、と言って一部で行われているようなお経を線書きにして刷ったものに書くのでは簡に過ぎる。

写経の意義は一字一字心をこめて書写することにある。字の巧拙を問うのではなく、書き上げたものを競うのでもない。自分の手で自分の字で一生懸命書くのである。

それがそのまま行になり、功徳とも供養ともなるのである。

正譽和尚


観世音 第46号 (昭和44年7月18日)より抜粋

~  死後の命  ~


幾歳になっても死にたくない
たとえ死んでも生命のあるように
それが人間の正直な願いである
その願いは必ずかなえられる
この世でおこなったことの結果は
その人が死んでも決して消えはしない


観世音 第45号 (昭和44年5月18日)より抜粋

何かを続けるということ


とにかく、毎日続けることである。
どっしりとした充実感、
得もいえぬさわやかさ、
そして、今あることの生の喜びを、
あなたは必ず感得するに違いない。


観世音 第44号 (昭和44年3月18日)より抜粋

嘘 (うそ)


ほんとうでないことを口にするのはまことに心の重いことである
いつでも真実(まこと)のことがいえたらどんなにか心の軽いことだろう
けれども人間は弱いものである嘘に頼らねばならないときもある


観世音 第43号 (昭和44年1月18日)より抜粋

~  まず自分が燃え上がってこそ  ~


人を起こそうとすればまず自分が起きなければならない
人に教えようとするものはまず自分が学ばねばならない
人を奮い起たそうと思うならばまず自分が燃え上がらねばならない


観世音 第42号 (昭和43年11月18日)より抜粋

Q.  お塔婆には何が書かれてあるのでしょうか?

A.  お塔婆にはまず宛先の住所と名前が書かれます。住所はむずかしい梵字(インドの言葉)でみ仏の世界、極楽浄土が記され、次に宛名である戒名が書かれるのであります。更に裏にも梵字が書かれて、差出人である私達の悩み多い此の世を表しております。そして終わりに、差出人であるお施主の方のお名前が明記されます。


観世音 第41号 (昭和43年9月18日)より抜粋

~  志のあるところに出来ないことのあるはずはない  ~



観世音 第40号 (昭和43年7月18日)より抜粋

心よ。。。
この世は、もとの心をなすところであるから、心のはからいをなくする道を得なければならない。
外に形の迷いがあるのではなく、内の心が迷い出して来るのである。

心の貪欲をもととして、この貪欲の火に焼かれて苦しみ悩み、
心の無智をもととして、迷いの闇に包まれ、愁い悲しむ。

迷いの家を作るものは、この心の外にないことを知って、
道を求める人は、この心と戦って進まねばならぬ。


観世音 第39号 (昭和43年5月18日)より抜粋

垢(あか)
鉄のさびが、鉄から出て鉄自身を喰うように、悪は人から出て人を喰う。
経があっても読まなければ経の垢、家があってもその破れをつくろわないのは家の垢、怠ることは身の垢である。


観世音 第38号 (昭和43年3月18日)より抜粋

十億の人に十億の母あれど
わが母にまさる母あらめやも


~ 敏詩集 ~


観世音 第37号 (昭和43年1月18日)より抜粋

河の流れに、舟を浮かべて下るに、岸に立つ人が声をからして叫ぶ。
「楽しそうに流れを下るのことをやめよ。下流には波がたち、渦があり、渕がある。
そのままに下れば、死なねばならぬ」と。

これは人の生活を写したたとえである。
「河の流れ」とは愛欲の生活をいい、
「楽しそうに下る」とは自分の身に執着することであり、
「波立つ」とは、いかりと悩みの生活をあらわし、
「渦」とは欲楽を示し、「渕」とは罪に滅びる生活をさし、
「岸に立つ人」とは仏をいうのである。

「新訳仏教聖典」 法蔵館 より


観世音 第36号 (昭和42年11月18日)より抜粋

怨は怨によってしづまるものではない。怨を忘れて、怨はしづまるものである。
弓矢をつくる人が、矢を削って真直にするように、賢い人は、その心を直くする。
心はおさえがたく、軽く、走ってめぐって調えがたい。
この心を調えてこそ、安らぎが得られる。
敵がするよりも、仇がするよりも、この心は、人に悪事をするものである。
この心を、貪から守り、怒から守り、あらゆる悪事から守る人に、
まことの安らぎが得られる。

------  それが解脱である  ------


観世音 第35号 (昭和42年9月18日)より抜粋

語だけ美しくて、実行の伴わないのは、色があって香のない華のようなものである。
華の香は、風にさからって流れない。しかし善き人の誉は、風にさからって世に流れる。

「新訳仏教聖典」 法蔵館 より


観世音 第34号 (昭和42年7月18日)より抜粋

世界はめまぐるしく変わっている。ベトナム戦争はますます拡大した。
それにしても5月23日にはかろうじて釈迦誕生祭休戦が実現したことは
我々仏教徒にとって嬉しいニュースであった。

慧誉師


観世音 第33号 (昭和42年5月18日)より抜粋

~  愛欲は悪魔の投げたえさで、人はこれにつられて魔道にしずむ  ~


愛欲は煩悩の根であって、いろいろの煩悩がこれにつきしたがう。
愛欲は煩悩の芽をふく苗床で、いろいろの煩悩を生ずる。

一片の肉を争うて獣はたがいに傷つき、灯をとって風に向う愚な人は走ってその身を焼く。
この獣の如く、またこの愚な人の如くに、人は欲のためにその身を傷つけ、その身を焼く。


観世音 第32号 (昭和42年3月18日)より抜粋

~  彼  ~


1歳違いの隣家の彼は私には親戚以上の付き合いであった。
しかし彼が3才の時に父が亡くなり彼は父をわからない。
まぶたにも浮かばぬ父や春寒し

数年後、彼の母が病に倒れ、病床につくとあの関東大震災、近所の火事があるなど
ショックが重なり、病状が悪化してついに少年の彼を残して行く秋とともに帰らぬ人となった。
母葬るシャベルにすがる冬の蝉

以来、両親と歩く友の私を見つけるにつけ、彼はどんなにか
この世に母あるは幸なり、父あるもまた幸なり
と思ったことであろう。その彼が消息を絶ってからもう30年になる。

寿徳寺第23世住職  新井正誉


観世音 第31号 (昭和42年1月18日)より抜粋

時として親子はたがいに助け合う機会のあるものである
ところが真に親子が全くはなればなれになることがある
老の恐れ、病の恐れと、死の恐れのおそい来たときである
親の老いていくのを、子はいかにして之に代わることが出来ようか
子の病む姿のいじらしさに泣いても、親はどうして代わって病むことが出来よう
子の死、親の死、いかに親子であっても、どうしても代わり合うことは出来ない
これこそ、まことに「親知らず、子知らず」といわねばならぬ


観世音 第30号 (昭和41年11月18日)より抜粋


いま、私も息をしている。
正に生きている。
何のとりえもないこの身ではあるけれど
かけがえのない、大いなるいのちを持っている。

そうだ、精一杯生き抜かねば。


寿徳寺第23世住職  新井正誉


観世音 第29号 (昭和41年9月18日)より抜粋


父母を尊び敬うものの家は、仏や神の宿りたもう家である。
父母はまことにその仏であり神である。


「新訳仏教聖典」 法蔵館 より


観世音 第28号 (昭和41年7月18日)より抜粋

心さえあれば眼の見えるところ耳の聞くところ、みな悉く教えである。
香を合す道にも仏の教えがあり、華を飾る道にも悟りの語がある。
王者が牢獄を設けて裁く刑にもなさけの眼があり、
異教の邪な道の師匠にも正しい導きの手はある。
昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、
これらも悟りを求める心を、教えの雨で潤す。
いたるところに道を問い、いたるところに話しを聞き、いたるところに悟りの姿を見つけることができる。


観世音 第27号 (昭和41年5月18日)より抜粋


~ よろこんであたえる人間となろう ~


ものがあればものを
ちからがあればちからを
ちしきがあればちしきをみんなにあたえよう

なければ自分のなかに
そだててあたえよう

花は美しさをおしまず
小鳥はたのしい歌をおしまない
だれにでもあたえている

あたえるとき  人はゆたかになり
おしむとき  いのちはまずしくなる

よろこんで  あたえる人間となろう


観世音 第26号 (昭和41年3月18日)より抜粋


~ 縁 ~


ここに茶碗がある。ところがこの茶碗がちょっとしたはずみで落ちると、
それはもう茶碗ではなくセトモノのかけらになる。
しかも茶碗になる前には、これは山の土だった。
山の土が焼き物工場に運ばれて、職人の手でこねられて茶碗になったのだが
その時すぐ隣にあった土は今も山の土のままでいるかも知れないし
また、一緒に掘りだされて工場に運ばれたとしても、茶碗にならずに
お皿になっているかも知れない。そして、そのお皿はもう壊れて土になっている
かも知れないし、あるいは大切にされてこの茶碗より寿命があるかも知れない。


観世音 第25号 (昭和41年1月18日)より抜粋


~ 造られたもの ~


肉体の苦しみが深まると、身体はかがみ、ころがってもがきます。
阿羅漢は肉体に苦しみをおぼえたとき造られたものは常でない
(諸行無常)というお釈迦様の教えに心を統一します。
すると身はよじれても心は大樹の幹のように動揺せず安立します。
永遠の真理です。


観世音 第24号 (昭和40年11月18日)より抜粋


~ 仏の教えは説かねばならぬことを説き
説く必要のないことを説かない ~


人はまづ問題をえらんで、何が自分の第一の問題であるか
何が最も自分に押しせまっているものであるかを知って
自分の心を養うことから始めねばならない。


観世音 第23号 (昭和40年9月18日)より抜粋


植木いじり、子供さんのお守、仕事、いずれでもいいのです。
一生懸命するというのが大事なんです。
80才でも90才でも一生懸命する人は永遠の若者です。


三念寺住職 清水淳誉 師の言葉


観世音 第22号 (昭和40年7月18日)より抜粋

この号の観世音では師匠である中村元(東京大学名誉教授、文化勲章受章博士)と、当時東京大学生であった慧誉(慧一)和尚が3回にわたり日本テレビにて対談している模様の詳細が掲載されています。

テーマは‘仏教の現代性’

「既に成り立った文化体系としての仏教の、今ある形は徐々に消えてなくなると思います。造られたものは移りゆくというのが仏教の根本の教えなのですから。移りゆくものの変化を通じて変わらないものもあります。それが普遍の真理です」
と、しめくくられてます。

観世音 第21号 (昭和40年5月18日)より抜粋

ヤッコさんの歌
ヤッコさんは大変だ。エンのシタの力持ち。 エンの上にはいい人もいればやっかいな人もいる。
でも、同時にその面倒をみて、全て背に負わねばならぬ。 力のいることよ。
我慢で出来るか、踏まれてつぶれるか、トゲを出してエンの上の人を刺すか。
ダルマさん、あんたは辛抱したんだね。ただの忍耐ではなかったでしょ。
はた目には忍耐にみえても、自分では楽しかったのですよね。
ヤッコさんも頑張りましょう。
新井 慧誉 (慧一)


観世音 第20号 (昭和40年3月18日)より抜粋

昔から、過去の思い出の中へ現在の自分を埋没させたら人間はおしまいだと言われる。
つまり未来を望みつつ現在をいきることはできないのだから。
しかし思い出はそんなマイナスの働きを持つものだけではない。
ちょうど音楽における休止符で流れが生きてくるように、
思い出によって現在の生活リズムは適度の調節を得るように思われる。
思い出はふと何かのきっかけで心に浮かんでくるものであろう。
今日はこの思い出にひたってやろうとか、この思い出を話してやろうという
作為があると思い出の本来の形は失われてしまう。

慧誉 師友人  /  木村 清孝 師の言葉
龍宝寺 住職 ・ 東京大学 名誉教授 ・ 鶴見大学 学長
国際仏教学大学院 大学特任教授 ・ 仏教伝道協会 理事


観世音 第19号 (昭和40年1月18日)より抜粋

細野太平氏(昭和40年1月当時、東京大学印哲科3年、慧誉師の後輩)が
自力、他力について提議されました。
元来、仏教は1つであり、宗教は後人の成せる業という。
我々共に考えていくべき問題ではないでしょうか。


観世音 第18号 (昭和39年11月18日)より抜粋

現代宗教の不振が叫ばれ、その責任を僧侶の無能と怠慢に帰する人々があるが、 むしろ我々一般人の生活態度の中に、ありきたりの、出来あいの言葉とか概念で、 悩みを救ってもらおうという安易な気持ちがあるからではないか。

野田 金乗院 加藤純章 師の言葉


観世音 第17号 (昭和39年9月18日)より抜粋

今日の言葉

● 正しい教えを知らないで百年生きるよりは、
   正しい教えを聞いて一日生きる方が勝れている。
● 眠らぬ人には夜が長く、疲れた者には道が遠く、
   正しい教えを知らない人には、その迷いが長い。
● 教えを喜ぶ人は、心が澄んで、よく眠ることが出来る。
   教えによって心を洗われるからである。

「新訳仏教聖典」 法蔵舘より


観世音 第16号 (昭和39年7月18日)より抜粋


~ 宗教とは元来、抹香くさいものだけではない ~


大学の生協で買った120円の入場券を持ち、映画‘鮫’(真継伸彦 原作、昭和38年文芸新人賞)を見た。 「求むるものは何か」と叫ぶサメの中に「如何に生きるか」と迷う僕自身を見た気がした。 それには僕自身があまりにもめぐまれてきたことに思い当たらないではいられなかった。 戦中に生まれ育った僕を不自由な思いをさせたくないと両親は育ててくれたが、不肖の僕は「如何に生きるか」などと迷っている。 映画の田坂監督は宗教的な扱いをしたくないとの前提であったと聞くが、むしろ純真と言える一青年サメを通し、宗教の根本を描いているように思えた。 (昭和39年7月3日  慧誉25才)


観世音 第15号 (昭和39年5月18日)より抜粋

護摩 とは、梵語のhomaのことで、梵焼と意味する。
智慧の火で迷いの薪を焼くことを意味する密教の修法。
インドでAgni(火神)を供養して魔を除き福を求める為に行われた火祭を
仏教に採用した。不動明王や愛染明王などを本尊とし、
その前に儀則に基く護摩壇を置き規定の護摩木を焚き、
火中に穀物等を投じて供養し、災を除き(息災)、幸福をもたらし(増益)、
悪を屈服する(降伏)ことを祈願する。


観世音 第14号 (昭和39年3月18日)より抜粋


~ 仏教の他者への愛を究極の姿 ~
慈悲の究極として<無縁の大悲>


つまり私が誰にどれだけのことを等という条件を意識しないで
他者を幸せにする無条件の大愛が説かれている。


観世音 第13号 (昭和39年1月18日)より抜粋


~ 一口に花といっても牡丹、百合、薔薇、たんぽぽのように
それぞれ独特の色と形を持っていて特質を精一杯に発揮して
私達の眼を楽しませてくれてます ~


私達は今一度じっくりと自分というものを見極め、その持前を知り、
賢なりともそれに溺れず、我も人なり彼も人なり、 愚なりとも悲しまず、
人という一つの立場で、各自の持前を発揮して 持ちつ持たれつ、
家庭、社会をしっかりと守りましょう。
寿徳寺 第23代住職 新井正誉


観世音 第12号 (昭和38年11月18日)より抜粋


静坐のすすめ
私達は、時代の急転と社会の複雑化の中で
キリキリ舞いをしながら生きている。
~ だからこそ静かに坐ろう ~



観世音 第11号 (昭和38年9月18日)より抜粋


~ 道は(語るべきものではなくて)踏み行くべきものである ~


道林禅師や釈尊は言う。
‘善悪を弁別するのは少年にも容易だが、悪行を斤けて善行につくことは
白髪の老人にも至難のワザである’
‘髪白きこと尊からず、徳高きを以って尊し’
‘教えを説くこと尊からず、法を行ずること尊きなり’

批判が先行して実行が後退している現在の様子を過去から指摘されてるようだ。
福性寺 先代住職 田久保周誉 師の言葉


観世音 第10号 (昭和38年7月18日)より抜粋


~ 百聞は一見にしかず ~


寿徳寺では法事で檀家の皆様と朝暮勤行法則を読経します。
今まで読んだことがなかったという檀家の奥さんがやってみたら。。。
意外とわけなく出来て、
今まで無縁だと思っていた仏教経典が身近に感じられる、と連絡がありました。

朝暮勤行法則をご希望の方はお知らせください。
お送りいたします。無料。

観世音 第9号 (昭和38年5月18日)より抜粋


~ 私達は他からの助けで「生かされておる」という事は
私達も他を「生かしておる」ことでもあります ~


私達が生きている事実は取り巻くすべてのものの
「助け合い」なくしては不可能で
そこに感謝が生まれ、人と人との付き合いがあらわれ、
道徳が出来、物を大切にする考えが生じます。
三念寺住職 清水淳誉 師の言葉


観世音 第8号 (昭和38年3月18日)より抜粋


~ 理性では知ることができないことがある、
悟ることで真の安心が得られるのではないか ~


仏教もキリスト教もイスラム教も神道も長い伝統に支えられ、
どれも目指すは人間の幸福であるのでしょう。
それぞれ山頂へ登る道が違うだけにすぎない。
山頂とは真理のことで仏教では悟りと表現する。
疑いがなくなり、心が静まるということである。
つまり、知るとか知らないという段階を乗り越えた‘執らわれない’状態のことである。


観世音 第7号 (昭和38年1月18日)より抜粋


~ 仏教は宗教である。しかし宗教は仏教でない ~


自分は何も信じていないから、仏像に手を合わせないし、お賽銭をあげない。
つまり私は無(非)宗教な人間である、という日本人は多い。
仏教とはそのように形にとらわれた宗教ではありません。
仏教は奥深く崇高なもので「自覚する」ことなのです。「自らを覚す」とは
関心をよせ、疑問や意識を持つことからはじまります。
自分自身に疑問を感じ、己を省みる。
ぶつぶつと理屈をとなえる前に、正しい行いの実践が大事であり、それが仏道です。


昭和37年9月から11月、門前掲示板にかけられていた慧誉和尚が選んだ言葉

昭和37年9月23日~28日

山中の賊は敗れやすく、心中の賊は敗りがたし

昭和37年11月5日~15日

善いことは他人はしなくとも自分がすればよい

昭和37年11月16日~26日

十人の上に立つ者は十人の下に、百人の上に立つ者は百人の下に


※観世音第6号(昭和37年11月18日)参照


観世音 第5号 (昭和37年9月18日)より抜粋


~ 言葉は人の意思を伝える便利な道具ですが ~


あくまで道具なので、語る人、聴く人によってその意味するところは
いかようにも解釈出来、相手次第で誤解をまねくことがあります。
よって不完全と言えましょう。他人の表現せんとすることは
出来得る限りその人と同じ気持ちになって感じる(=観じる)ことが
大切であり、これは仏教の‘悟り’へ通じるものではないでしょうか。


観世音 第4号 (昭和37年7月18日)より抜粋


釈尊は‘一切のことをみずから知った’


マッジーマ・二ヤーカというお経の中で、
釈尊は‘一切のことをみずから知った’と述べてます。
仏教とは、人間釈尊が現実の人間をあるがままに見て、実践的存在としての
人間の理法(dharma)を体得し、克ち得た‘ものの考え方’であります。

仏教は死者だけのための宗教ではなく、現在生きて生活しているあなたのものです。


観世音 第3号 (昭和37年5月18日)より抜粋


本当の自由とは、自覚された自由


自由だから何をしてもいいということは、裏を返せば何をしていいかわからないということ。
・ 帰(き)すべきところがない
・ 場所が見つからない

心の眼(まなこ)を開けて自分が生かされていくだけではなく、他人をも生かしてゆく。
それが、正しきダルマ(dharma)なのです。


観世音 第2号 (昭和37年3月18日)より抜粋


私達の経験するあらゆるものが 『 無常 』
~ 人がこの世に生まれた以上「死」というポイントに向かって
強制的に行進をさせられているのです ~

仏教の開祖釈尊は生まれながらにして人間であり、我々と同じだったのです。
従って、人生の悩みや死への恐怖も同じでした。
釈尊が修行の結果 「気付いたこと」 を 「教えた」 のが仏教のはじまりです。


観世音 第1号 (昭和37年1月18日)より抜粋


釈尊を神格化してはいけないのです
私たちは、釈尊の教えに帰依するのであります
All is vanity


真言宗 豊山派